本文
1620(元和6)年~1696(元禄9)年
江戸時代の学者です。
家は,三原でみそ・しょうゆをつくり販売していましたが,正員の代には薬屋をはじめました。よく働いたので,仕事もうまくいきました。
生活も落ち着いてくると,自分の無学が気になり,人間としての生きる道を勉強したいと思うようになりました。そこで中国の学問の本など買って勉強しましたが,数年かかっても本当の意味がよく分かりませんでした。
54歳のとき京都に行き,えらい学者であった山崎闇斎について学び,よく努力して優秀な成績をおさめました。
これを知った4代三原城主の浅野忠義は,正員をしばしば城中にまねいて学問の講義をさせ,とくべつなもてなしをしました。
60歳のとき,大阪の薬屋に支払いの残金を持って行ったところ,主人が代わっていてよくわからず,引き継いだ人にどうしても受け取ってもらえなかったので,そのお金で石の鳥居をつくり, 西宮の八幡宮に寄付したといわれています。
62歳になって須波に住み,すきな本を読むという生活にはいりました。
そのころの須波の海岸には波止場がなかったので,波風のはげしいときには舟が帰れず,ときにはてんぷくすることもありました。
これを知った正員は自分のお金で波止場をきずいて,村人に大変 喜ばれました。この仕事をほ めたたえた石碑が,今も別荘跡に残っています。
西町の大善寺にあるお墓は,県の史跡になっています。