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郷土三原ゆかりの人たち 浅野忠吉(あさの ただよし)

記事ID:0002887 更新日:2014年4月1日更新

  1547(天文16)年~1621(元和7)年

 戦国時代から江戸時代はじめのころ活躍した人で,三原浅野家の初代三原城主です。忠吉が生まれたところは,尾張(愛知県)の国です。
 はじめは織田信長の家来でしたが,従兄弟の浅野長政が大津(現在の滋賀県大津市)の城主になったとき,長政をたすける家老になりました。
 その後,豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めたとき,長政に従っててがらをあげ,また,長政なきあと藩主浅野幸長(長政の子)をもりたてて,戦国の世をのりきりました。
1600(慶長5)年,幸長は紀伊(和歌山県)37万石の領 主となり,忠吉は熊野新宮(現在の和歌山県新宮市)の2万8千石の城主になりました。
 1613(慶長18)年に幸長が亡くなりましたが,後継ぎの子はいませんでした。忠吉は幸長の遺言により幕府にお願いして,備中 (岡山県)足守藩主である幸長の次弟の長晟を後継ぎとして認めてもらい,紀伊の浅野家をまもりました。
 1619(元和5)年に,長晟は安芸・備後(広島県)42万石の広島城主になりました。その後,忠吉も新宮から広島に移り,広島浅野家の第一家老として,三原城主となります。また,これまでの働きにより,2千石ふえて3万石の城主となりました。
 1621(元和7)年,75歳で亡くなりました。広島城西の妙頂寺に 葬られています。

 浅野忠吉

みはら再発見


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