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三原城について
戦国武将の小早川隆景は,兄の吉川元春とともに,おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させ,瀬戸内海の水軍を掌握していました。
隆景は,三原の沼田川(ぬたがわ)河口にある大島と小島をつないで「三原城」を築きここに移ります。「小早川家系図」によると,築城は永禄10(1567)年とされています。
三原城は海に向かって船入りを開き,城郭と軍港としての機能を備えた名城で,満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので「浮城(うきしろ)」と呼ばれていました。
その後,1894年には三原城本丸跡地に山陽鉄道の駅舎が建てられ,山陽本線と新幹線が本丸を貫き,今は天主台跡とそれをめぐる濠と船入櫓跡・中門跡などが残るのみになっています。
隆景は,三原の沼田川(ぬたがわ)河口にある大島と小島をつないで「三原城」を築きここに移ります。「小早川家系図」によると,築城は永禄10(1567)年とされています。
三原城は海に向かって船入りを開き,城郭と軍港としての機能を備えた名城で,満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので「浮城(うきしろ)」と呼ばれていました。
その後,1894年には三原城本丸跡地に山陽鉄道の駅舎が建てられ,山陽本線と新幹線が本丸を貫き,今は天主台跡とそれをめぐる濠と船入櫓跡・中門跡などが残るのみになっています。
▲整備後の三原城跡周辺イメージイラスト
▲明治43(1910)年頃の三原城跡(船入櫓跡)。手前は瀬戸内海
▲現代の三原城跡
三原城歴代城主 紋所
三原市サイト内の三原城に関するページ
小早川隆景・三原城関連年表
和暦 | 西暦 | 月 | 主なできごと | 史料 |
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天文13年 | 1544 | 11月 | 竹原小早川家の養子となり家督を継ぐ | |
19年 | 1550 | 10月 | 沼田小早川家の養子となり家督を継ぐ | |
20年 | 1551 | 10月 | 高山城に入る | 佛通禅寺住持記 |
21年 | 1552 | 6月 | 新高山城の築城を開始し、高山城から移る | 佛通禅寺住持記 |
22年 | 1553 | 3月 | 八幡原六郎右衛門尉に三原要害の在番を命じる | 萩藩閥閲録 |
永禄4年 | 1561 | 3月 | 毛利元就・隆元が新高山城を訪れる | 毛利家文書 |
永禄10年 | 1567 | 2月 | 三原城を築城する | 小早川文書 |
天正3年 | 1575 | 4月 | 島津家久が上洛の途次三原城付近を通過する | 中書家久公御上京日記 |
5年 | 1577 | 7月 | 毛利輝元が三原に本営を置く(同年末ごろまで) | |
〃 | 〃 | 新高山城に匡真寺を建てる | 嘯岳鼎虎(しょうがくていこ) 禅師語録 | |
8年 | 1580 | 7月 | 三原城の修築を命じる | 萩藩閥閲録 |
10年 | 1582 | 4月 | 三原城の修築を命じる | 萩藩閥閲録 |
〃 | 〃 | 6月 | 織田信長没、秀吉と講和 | |
〃 | 〃 | 6月 | 磯兼景道に三原城の堀普請を命じる | 萩藩閥閲録 |
11年 | 1583 | 3月 | 三原城下町の整備を進める | 萩藩閥閲録 |
13年 | 1585 | 8月 | 伊予国を拝領 | |
14年 | 1586 | 3月 | 湯築城の築城開始 | 浦家文書 |
15年 | 1587 | 3月 | 秀吉が三原城に宿泊する | 九州御動座日記 |
〃 | 〃 | 6月 | 筑前・筑後に移封 | |
16年 | 1588 | 2月 | 筑前名島城の築城開始 | |
文禄3年 | 1594 | 11月 | 秀吉の甥、秀俊(秀秋)を養子に迎える | |
4年 | 1595 | 11月 | 秀秋に家督を譲り、三原城を隠居城とする | |
〃 | 〃 | 11月 | 自身の居所の完成を急がせる | 萩藩閥閲録 |
慶長元年 | 1596 | 11月 | 三原城の本格的な改修を開始 | 萩藩閥閲録、 佛通禅寺住持記 |
2年 | 1597 | 6月 | 小早川隆景没 | |
3年 | 1598 | 8月 | 豊臣秀吉没 | |
5年 | 1600 | 9月 | 三原が毛利氏の直轄領となる | 萩藩閥閲録 |
〃 | 〃 | 9月 | 関ヶ原の戦い | |
〃 | 〃 | 10月 | 福島正則入国 | |
6年 | 1601 | この頃、福島正之を三原に置く | ||
20年 | 1615 | 閏6月 | 一国一城令 | |
慶長年間 | ― | ― | この頃の三原城の規模を記す(『増補三原志稿』) | 増補三原志稿 |
元和5年 | 1619 | 7月 | 福島氏改易、浅野氏入国 | |
〃 | 〃 | 10月 | 浅野忠吉が三原城代となる | |
6年 | 1620 | 3月 | 三原城の存続が認められる | 自得公済美録 |
正保年間 | ― | ― | この頃、「備後之内三原城所(正保城絵図)」制作される | |
〃 | ― | ― | この頃、三原城榎之門の脇に長屋を建てる | 浅野家記 |
万治2年 | 1659 | 10月 | 三原城堀浚えの伺いをたてる | 玄徳公済美録 |
寛文2年 | 1662 | 三原城書院・溜之間・居間・焚火之間・風呂屋を再建する、 玄関を付け替える | 浅野家記 | |
3年 | 1663 | 舟入の脇に多門櫓を建てる | 浅野家記 | |
〃 | 〃 | 三原城の門番の居所を建て替える | 浅野家記 | |
延宝8年 | 1680 | 三原城西大手門の外側に柵・菱垣を築く | 浅野家記 | |
元禄元年 | 1688 | この頃、「紙本著色備後国三原城下絵図」制作される | ||
宝永元年 | 1704 | 12月 | この頃の三原城の規模を記す | 浅野家記、広島藩覚書 |
4年 | 1707 | 10月 | 地震により三原城壁が壊れ、修復を願い出る | 浅野家記 |
文政3年 | 1820 | 7月 | 三原城内に明善堂を建てる | 増補三原志稿 |
12年 | 1829 | 6月 | 三原城二の丸の石垣修復の伺いを出す | 天祐公済美録 |
13年 | 1830 | 7月 | 石垣普請の手伝いを町方に要請する | 川口家文書 |
天保11年 | 1840 | この頃、「紙本著色備後国三原絵図」制作される | ||
安政2年 | 1855 | 12月 | 三原城本丸の石垣修復の伺いを出す | 温徳公済美録 |
3年 | 1866 | 三原城内に南館を新造しこれに移る、桜山に砲台を築く、 新高山城に備えをしく | 増補三原志稿 | |
慶応3年 | 1867 | 12月 | 大政奉還 | |
慶応年間 | ― | ― | この頃、「紙本著色備後国三原城絵図」制作される | |
5年 | 1872 | 5月 | 三原城内の建造物等の入札が行われる | 安田家文書 |
10年 | 1877 | 5月 | 通り丁付け替え工事(本町・館町新道) | |
13年 | 1880 | 三原小学校成立、本丸御殿を校舎として使用 | ||
19年 | 1886 | 三原小学校、本丸御殿の使用を止め移転 | ||
27年 | 1894 | 三原停車場が完成 | ||
昭和32年 | 1957 | 12月 | 三原城跡が国史跡に指定される |